2018年05月31日

45日目 ストレス

 
 ひとは生きていればストレスと嫌でも向き合わなくてはいけない




思い通りにならなかったり 予想外のことが起きたり





どんな人間でも大なり小なりストレスを抱えて生きている




ひとから怒られたり 罵倒されたりするとなぜイラっとくるのか




それは自分を 自分の考えを否定されたと思うからだと僕は考えている




自分の許容量を超えると体にもこころにも負荷がかかる




それも一種のストレスである





ストレスと無縁の生活を送るにはどのようにすれば良いのか





それは死ぬしかないと思う




生きること自体 人間にはストレスがかかる




それは生まれた時から決まっていること




だから抗えない





だけれどもストレスを軽減する方法はある





ストレスは基本自分の思い通りにならないことが原因で発生する




そしてひとは抱えるものが多ければ多いほど



かかるストレスも大きくなる




ようにみえるがそうではない




どこかで妥協できないからストレスが重くなる




結果を自分の力以上に求めたり 言われたこと以上のことをやろうとするから




負担がかかる




言われたことを言われた通りにやることは素晴らしいこと





それに何かを付加することなど考えなくていい




目の前のことをしっかりやりきることが大事





結果はどうであれ何に対してもやりきる





それを意識しているとストレスも少しずつではあるけれど




減っていく




これは絶対




だから思い通りにしようとするのではなく





結果に合わせて行動していくことが 考えることが




ストレスとうまく付き合ってく一つの方法であると僕は考える



                                         以上














posted by こへちろ at 16:55| Comment(0) | 統合失調症 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

44日目 幻聴とは

 
 幻聴は他人に見られたくない自分を受け入れたくない気持ちからくることがある




例えば他人に対して嫌らしい想像をしたとする




想像することは誰にでもある




想像に留めるならばそれは誰にも迷惑はかけてはいないし




誰かにその想像を知られることはない





それが普通であるのだが





そのようなことを想像する自分が許せないというひとは意外に多い




幻聴とはそのような自分の嫌な部分を受け入れられないこころからきているともいえる




こう思ってしまう自分はなんてやつだ





こんなことをおもってしまう自分が嫌で仕方ない





そんな風に自分を受け入れようとせず




いい面を持ち合わせている自分を否定し続ける




そのようにしていると本当に幻聴が聞こえ始める





幻聴は誰にでも起こり得るもの




昨日まで幻聴とは無縁だった人も明日には幻聴と人生を共にするかもしれない




幻聴とはこころの声と表現することもできる




こころの中の自己対話と似ている



いやもしかしたら自己対話と幻聴は同じようなものかもしれない




自分を他人から否定され そして自分で自分自身を否定する




そうすると誰も肯定してくれるひとがいなくなる




現実で会話するひとがいないひとは




必然的に空想に耽ると思う




それでも現実との接点を何かしらの形で持っているひとは




幻聴で苦しむことは少ないと思う




仮に幻聴があったとしてもそこまで凝り固まってはいないはず





問題なのは現実との接点がなくなり自分の世界に篭ってしまうこと




空想を空想だと判断できなくなると




ひとは空想を現実だとおもいだす





幻聴はこころの声であるのだけれど




こころの声を空想ではなく





現実だと認識してしまう




それが幻聴というものだと僕は思っている




聞こえるはずのないものが聞こえるのではなく




自分以外分からない考えや思考を受け入れるひとがいなくなると




ひとは現実に何かを求めなくなる




だから想像の世界へ何かを求めて




結果幻聴に苦しむことになる




答えは現実にしかない




幻聴とは出口のない迷路を永遠にさまようようなもの




幻聴は現実ではない




そして現実で生きることが唯一の幻聴から逃れる方法である




だからまずは人間いい面も悪い面もあるということを受け入れること




そして自分の嫌な面を受け入れてあげること




が幻聴を緩和させてくれる方法の一つであると僕は思う



                                      以上




































posted by こへちろ at 17:14| Comment(0) | 統合失調症 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

43日目 自分の知らないところで

 
 ひとは自分が意識していないところで誰かの役に立っていることがある




誰かのために動いたわけではないのに何故かありがとうと言われる




確かに何かの 誰かのために行動したことで感謝されることはあっても





それは何かを与える対象がある前提の行動での感謝でしかない




ありがとうと感謝されることは嬉しいことだとは思うけれど





感謝される可能性が1パーセントでもある行動でもらうありがとうをもらうと





何故か申し訳ない気がしてしまう自分がいる




ありがとうをもらう前提で行動するのは窮屈に感じる




結局のところ行動というのはすべて自分のために行う動作だと僕は思う




だからひとのため 他人のため 誰かのためというのは




声に出していうことではない




というよりひとは本当の意味で誰かのために行動することはできない




ひとを助けたように見えても結局は自分を成長させたに過ぎない




本当の感謝とは自分の意図しないところから生まれるもの




そしてそのきっかけは日常に紛れている




ひとを助けることを偽善というひともいるけれど




結局偽善だろうが偽善じゃなかろうが




自分のために行動すればそんなものどうでもよくなる




難しいけれど自分のことばかり考えて行動すると犯罪者になる可能性は高くなる




ひとは自分の知らないところで迷惑をかけているし 感謝もされている




自分が意図しようがしまいが結局迷惑かけることからは避けられないし





かといって誰からも感謝されないわけでもない





そのことは絶対に変わることのない真実であると僕は思っている




誰かのためにする行動が自分を苦しめるのなら




それは間違いなく偽善である




ひとのこころの奥底では嘘はつけない




ひとは本当のところ自分のためにしか生きられないのだと思う




だからこそひとに優しくできるのだし 寄り添えるのだと思う




自分のため 誰かのためとか 〜のためというのはすべて




言葉あってのもの




医者 看護師 カウンセラー ボランティア 




元を辿れば目の前のひとを救いたいという本当の気持ちから




でた行動が今の職業として成り立っているのだと思う





だから助けるというのは烏滸がましい表現だとも僕は思う




会社員だって 料理人だって どんな職業であっても




自分の知らないところで感謝されているということを





忘れてはいけない




ありがとうという感謝の気持ちは口に出すことでも伝わるけれど




本来は言葉ではなく行動で示すものであったはず




ありがとうという行動は相手の反応を受け入れることだと僕は思う




だから自分の知らないところで感謝されるとすごく嬉しいし





誰かの 何かの役に立てたんだなという心からの充足感が得られるのだと思う




自分の知らないところで今日も誰かが何かを思っている





それはじぶんがどう思おうが変わらないこと





だからすべてとは言わないけれど




自分がこれは譲れないというものを持つべきだと僕は思う


        


                                   以上





                         


























posted by こへちろ at 18:12| Comment(0) | 統合失調症 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする